カーペットの下の意味

とらえがたい瞬間がたくさんある。

昨日、お昼にリビングで千葉雅也さんの講演動画を流しながら感じた充足感。枝豆を一人で食べ過ぎたことを気にする妻のかわいらしさ。寝る前に妻の頭を撫でながら感じた愛情。無洗米で少量炊いたご飯を黄ばませずに一日できれいに食べきったうれしさ。詩集をパラパラとめくり、いい解説を読んだときのよろこび。ぼくが小さい頃大好きだったハリーポッターを妻と二人で楽しんで見られること。妻が口にするコメントの中に妻らしさを感じること。

こういった瞬間に感じたことをどうすれば箱にしまっておけるのだろうか。一つ一つ検分してみたいけれど、そんなことをしていたら時間がいくらあっても足りない。また、言葉にしようとペンを握ってみても、これだと思える言葉がちっとも浮かんでこない。

ぼくは経験の裏側にある意味を知りたいと思う。カーペットの下に何かがあるのだけれど、ぼくはそれを感知できない。ただ表面の起伏を撫でるように通り過ぎるだけだ。そこにあるものがわからないことに何とも言えないもどかしさを覚える。少しずつでも、能力が足らなくても、一つずつ言葉にしていく努力をするしかないのかもしれない。


それはそうと、アウトプットの先が散らばってしまっているのはよくない。決まりごとはとても大切だ。水の流れを整えようと思ったら、まずもって動かしようのない地形が必要だ。

文章力を鍛えるために書くなら、メモ帳ではダメだ。バックスペースで消すことができるデジタルの文字ではあまりにも軽すぎる。文字の消しづらさが文章の重みを守ってくれる。ノートに肉筆で書くのでもいいけれど、その場合は専用のノートを買うこと。

ウェブ上で公開するのも一つの手だ。サイト上で公開された記事はバックスペースでは消えなくなる(編集画面を開けば消せるとはいえ)。ただ、最初からnoteのような人の多いプラットフォームに公開するのは荷が重いし、最近目にしたクラフトインターネットではないけれど、誰も見ていないような自分の土地でコツコツ畑を耕すように文章を書きためていくのもいいと思う。

しばらく書くのを止めてしまっていたけれど、ここで以前やっていた「朝の散歩」的な日記習慣をもう一度復活させてみようと思う。リハビリも兼ねて。