「知る」コンテンツと「学ぶ」コンテンツの違い

昨日、テキストコンテンツと動画コンテンツの違いを考えていたら、「知る」と「学ぶ」の違いに思い至った。

たとえばnoteのようなテキストベースの媒体は「知る」には向いているけれど、「学ぶ」にはあまり向いていない気がする。もちろん、受け手側にもともと「学ぶ」という文脈があって、その材料としてnoteの記事を活用するのであれば話は別だ。しかし発信する側が「学びの文脈」そのものを用意するのは難しいように思える。

一方で、YouTubeのような動画コンテンツでは、「学ぶ」という文脈を発信側が作り出すことが比較的容易な気がする。たとえば対談動画などもそうだし、すぐわかるおさんの映画解説などもそうだ。

思うに、「知る」と「学ぶ」の違いは、身体性がともなうかどうかにあるのではないだろうか。

たとえば、映画の考察を見たり読んだりしたとする。そこでへーなるほどと思ったとしても、それは「知る」の範疇にある行為だ。好奇心が満たされた時点で完結してしまって、そこからの発展はない。いつか肥やしになる日が来るかもしれないが、それはその人の中でその人自身の畑が形作られるのを待たなければならない。

そう考えると両者の違いはまた、畑の有無と言えるかもしれない。肥やし(になるかもしれないもの)を倉庫にしまい込むのが「知る」で、すでに存在する畑に肥やしを追加したり耕したりするのが「学ぶ」という行為。

長ったらしくて寄り道の多い動画コンテンツを見るとき、ぼくらの中の畑は知らず知らずのうちに鍬を入れられ、土を混ぜられ、耕されている。この感覚は、たとえば動画の内容を箇条書きにしたものを見せられても、絶対に味わえないものだ。

すぐわかるおさんの動画を見れば、おそらく多くの人が「学び」の感覚を味わうと思う。誰もが映画について学んでいるわけではない。それでも「学び」の感覚がともなうのは、そこで耕される畑が「映画畑」のようなものに限定されず、物の見方や考え方、世界の捉え方、映画というものとの向き合い方など、もっといろいろな畑を耕すのに役立っているからだろう。一本の映画から豊かさを掘り出せる人は、世界からも豊かさを掘り出せる。これは結論だけをかいつまんで伝えるタイプのコンテンツではなかなか得がたいものである。

「学び」の感覚は余白に宿るのかもしれない。長ったらしくて寄り道が多いこと。勉強であっても目的に直結しすぎるものに、少なくともぼくは「学び」は感じない。