自分独自の「畑」を耕すこと

千葉雅也さんと波頭亮さんの対談を見た。

今の殺伐とした世の中を若者がサバイバルする方法として、「家庭菜園」のように自分の畑を持つこと、そのために勉強することを勧めていた。そうしないと、ただただ搾取されるだけに終わってしまうと。

時代を支配する大きな流れから逃走するにしても、YouTuberのように「ワンチャン」を狙うしか方法がないのではいかにも苦しい。「(時代の論理に乗っかった上での)安定=適応」と「ワンチャン」という二極化した見方を脱構築して、そのどちらでもない生き方を模索すること。

自分の畑を耕してきた人はたしかに強い。手芸でも、学問でも、料理でも、すぐには真似できない技能や経験をコツコツ積み上げてきた人。

そういう人は、この先世界がどのように流動していっても、いちばんタフに生き抜けるだろう。極端な話、核戦争が起きて世界が原始時代に戻ったとしても、彼らはきっと必要とされる。今の時代、「手に職をつける」という言葉は、まるで夢のように響く。

ただし、単に技能があるだけではダメだ。自分の技能と時代との接点を探すための「視野」も必要になる。この視野は遠くまで及ばないといけない。ここでもまた、ある種の「勉強」が求められる。

「畑」の確保と、「視野」の確保。手元を見る目と、遠くを見る目。これらを両立してはじめて、時代の濁流にあらがいつつ、自分の生き方を模索するだけのスペースを確保できるようになる。

では、自分はどうだろうか?この先、自分の「畑」を持つことができるだろうか?

ライター仕事やサイト作りはいい経験だが、自分独自の「畑」にはならない。ぼくが「畑」を作るなら、知的な領域しかないし、ぼく自身の問題意識から発したものでないとつづかない。

ぼくに強みがあるとすれば、ぼくの中に飢えと渇きがあることだ。ぼくはお腹が空いている。だから鼻がきく。ぼくのような人間にとって、何が必要で、何が必要でないかをよくわかっている。

ぼくは一つの典型だ。おそらく、ぼくの世代にぼくのような人間は他にもごまんといる。ぼくのようにお腹が空いている人間は、ぼく以外にもたくさんはずなのだ。

ぼくは自分の問題意識を大切にして、関心領域をどんどん掘っていくべきだろう。現代に目を配りつつ、サン=テグジュペリなどを丁寧に読み込んでいく。サン=テグジュペリ研究を本気で考えてみてもいいのかもしれない。

ぼくの「畑」は価値が伝わりにくい。そこで収穫できるのは、言語化できないものだ。また、実生活とどのように調和させていくのかという問題もある。結局のところ、思想が人を変えるわけではないのだから。

ていねいな暮らしやミニマリストのようなわかりやすい理想に飛びつかない、あらゆる理想に対して中立を保ったままで、それでも時代に対してあらがう術を模索する、そういった態度一つでも、ある一定の人たちからの共感を得られるはずだ。

発信の仕方、価値の伝え方については、追々考えていく必要がある。とりあえず今日は長くなりすぎたので、ここまでにしておこう。