朝の日記は散歩のように

朝の日記は散歩のように

一昨日から「朝の日記習慣について②」を書こうとしたが、書けなかった。おそらく敗因は、「書く内容をあらかじめ決めていたこと」だと思う。

ぼくにとって朝の日記は散歩のようなものだ。なんとなくルートは決まっているけれど、どこに立ち寄るのか、どこまで歩いて行くのか、それらは実際に歩いてみるまでわからない。

しかし「朝の日記習慣②」はそうじゃなかった。あらかじめ書くべきことを、箇条書きで整理してあった。その時点ですでに自由な散歩ではなくなっていた。事実ぼくは、買い物メモを見ながら店内を歩き回る人のように、漏れがないように注意深く、要点を拾い集めながら文章を書いていた。

完成品の文章を作るならそれでいい。きちんとパッケージングされた文章を書こうと思ったら、足取りが重くて当然、書きあぐねて当然、産みの苦しみがあって当然だ。それは職人の仕事だからだ。

でも、朝の日記はもっと開放的で気ままなものにしたい。散歩のように目的意識を欠いた足取りでいたい。そうであってこそ、てくてく歩いているうちに思わぬ場所に出たり、気づかなかった横道を発見したり、道端のきれいな花に出会えたりできる。

そして何よりも、「書くことの楽しさ」を思い出せる場所であってほしい。

本来、書くことはとても楽しいことだ。文章を書いていると、次々に新しい発見をする。言葉に引きずられて、自分の本当の思いが形になっていく。書くまでの自分では思いもしなかった文章が出てきたりして、まるで別人が書いているかのように感じられることもある。「ああ、なるほどね」「そうだったのか」と感心してしまうことさえある。

この感覚はとても楽しい。自分がぼんやりと感じていたことが、ちゃんとそれと釣り合うだけの言葉を得て、その輪郭をはっきりさせる。それは世界に言葉をあてる行為でもある。

一度文章にして捉えてしまえば、あの感覚も、この思いも、いつでも手に取って触れるようになる。それが自分にとって大切なものならば、膝の上の猫のように、手でなでて、愛撫することもできる。

今日も大分、寄り道をした。でもこれでいいのである。今後も、朝の日記は「目的意識を欠くこと」を旨とする。朝の散歩のように、広々とした余白を楽しみながら、気ままな足取りで文章を綴っていこう。