朝の日記習慣について①

朝の日記習慣について①

2023年2月25日

こんなサイトを作って、毎朝日記めいたものを書いている。まだ5回目だが、すでにこの習慣によって、暮らしの中に「よい流れ」が一つできたという気がしている。

朝一番の時間は貴重だ。早朝。それは一日の始まりでありながら、まだ一日が始まっていない猶予された時間でもある。朝日が昇りきり白く照らすまでは、部屋の中にはまだ昨日の面影が残っている。

日記というと、夜寝る前に一日を振り返って、というイメージが強い。でも、ぼくにはそれはとても出来そうにない。夜は眠いし、頭も体も疲れている。しかも頭の中は、その日一日の活動を反映して、書類が散らかったデスクのようにごちゃごちゃとしている。

また、その日の夜のうちに書いてしまうと、出来事とのあいだの距離が近すぎる、という気もする。ぼくは事実をそのままの形で記録したいわけではない。ぼくの心のフィルターを通して感じ取った「真実」を書き留めておきたいと思っている。

そのためには、周りに静かにしてもらわなければならない。遠くからかすかに聞こえてくる水音から水のありかを探し当てるような具合で、ぼくは自分の心から聞こえてくるものに耳を傾けなければならない。

眠っている間に、昨日はなかば夢のようなものに成り変わる。翌朝目覚めれば、ぼくはもう見たばかりの夢を思い出すようにしか、昨日の出来事を思い出せない。生活の雑音は洗い落とされ、スクリーンに映された無声映画さながら、質量を伴わない「体験」に純化される。それはぼくの身体性を通じて再構築された「昨日」である。

だから少なくともぼくにとっては、「一夜はさむ」というのが日記を書くのにちょうどよい距離感なのだ。忘れてしまうほど遠くはなく、ノイズが混じるほど近くはない。ぼくの心の視力はそのときもっともよくものが見えるようになる。

もう一つ、朝の日記習慣によって生まれた好循環があるのだが、長くなりすぎるので、今日はこのあたりで終わりにしておく。つづきはまた明日の日記にでも書くとしよう。