タイトルは、昨日の日記の中に書いた一文だ。読み直して涙が出てくるくらい、心の琴線に触れるものがある。
「心の世界」という言葉は、大切にした方がよさそうだ。ぼくがずっと追い求めているものの、片鱗がそこにある気がする。そうだ、ぼくは、現実世界を土台にして「心の世界」がいかにして建設されるかに興味があるのだ。
たとえば、エッセイを書く意味も「心の世界」を活写することにある。小さい頃のぼくにとって天体望遠鏡がなんであったか。たまごっちがなんであったか。
ぼくがサン=テグジュペリやサルトルに強く惹かれたのも、「心の世界」を透視し、言語化する点において彼らが天才的だったから。映画や歌詞を考察することに強い喜びを覚えるのも、それらが作品に表れた「心の世界」を発見し、再建設するような作業だからだ。
古代文明に興味を持つのも、そうだ。文明はそのまま、一民族の「心の世界」である。宗教だって同じだ。
サラリーマンに愛を感じるのも、彼らが現代を生きる一民族のように見えているからかもしれない。スーツ、スーパーの総菜、テレビ番組、仕事終わりのビール。彼らはある一つの文明に属し、よくなじんでいる。ぼくにはそれがうらやましい。
誰の中にも「心の世界」は必ずある。そして、人間として生きていく上で、それなりに似通った部分もあるだろう。基本的な心の仕組みはそこまで大差ないのだから。
しかし、この世にさまざまな街があるように、「心の世界」にもその人固有の地形や配置、固有の風景があるはずだ。アレクサンドリアのように立派な街もあれば、スラムのように荒廃した街もあるだろう。心の世界を「街」と捉え、都市学的に考え直してみる試みは、おもしろいかもしれない。
子ども時代を歌ったリルケの詩の一節、「一つの道、一匹の獣、一つの絵」。あの黄金の都市はすでにないが、大人になっても、その人だけの「街」は存在する。ただ、世界が広がり、感覚が広がり、世界と感覚とがその分希釈されて、薄い空気のようなものになってしまっただけだ。
それはさておき、「心の世界」に対するぼくのこの偏愛が、何かしらの仕事と結びついたりしないだろうか。というのも、「心の世界」の解明に近づくためであったら、ぼくは命を捧げることも惜しまないだろうから。
この点については追々考えてみるとしよう。