詩集を開きたくなる朝

詩集を開きたくなる朝

朝起きると、カーテンの裾から青白い光が漏れていた。その色合いと濃さとで、今が早朝であるとわかる。世界がまだ青みを帯びていて、熟し切らない時刻だ。

布団から這い出してみて、ふと詩集を開きたくなった。それも、文庫や新書サイズの軽い本ではなく、全集のような大きくて重たいハードカバーの本だ。

たまにこんな朝がある。たいていは冬で、肌寒い朝だ。嫁がまだ寝ている朝で、部屋ががらんとしている朝だ。おそらく全集サイズの詩集と、ちょうど釣り合うような朝があるのだろう。

こんな些細な一事をとってみても、心が住む世界がそう単純なものではないことがはっきりする。ぼくは今日という日の朝において、いったい何と何とが釣り合っているのか、把握できない。しかしその目に見えない天秤はたしかに存在する。ぼくの心は我知らず正しく目盛りを読み取り、答えをはじき出しているのだ。

心の住む世界のこうした精妙さに出会うたび、ぼくはありとあらゆるものの価値判断が難しくなってしまうように思われる。ぼくにとって今日の朝にハードカバーの重みが役に立ったように、誰かにとって、ゴシップ誌の安っぽさが、パチンコ店の喧噪が、自動販売機の明るさが、役に立っているかもしれないのだから。

電子書籍は便利だ。しかし本棚の本がすべて電子書籍に変わってしまったら、ハードカバーの重みを必要とする朝は、いったいどう過ごせばいいのだろうか。では逆に、ハードカバーが旅の重い積み荷のようにしか感じられなくなる夜は?

きっと心に従って生きていれば、本人の意思が介在しなくとも、事物は正しく配置されていくのだろう。ちょうど打ち寄せる波が、何度も何度もその漂流物を置き直し、しまいにはそれぞれの置き所を見つけるのと同じように。

問題は、波が一定であることだ。満ち潮や引き潮があってもいいが、とにかく乱脈であってはいけない。サン=テグジュペリも言っていたように、まずもって、動かし得ない地形が求められるのだ。具体的な状況の中にしか、「心の世界」は建設されない。

小説というものが、この「心の世界」を写し取るものだとしたら、小説が常に具体的な状況を必要とするのもよく理解できる。また、小説は客観的な価値判断を保留する。実存的真実。これも上で書いたことと関係してくるかもしれない。

ぼくに足りないのは地形だ。こうでしかあり得ないという、具体的な状況だ。生活の中で「動かし得ないもの」が足りない。今のぼくにはサン=テグジュペリの言う「存在しない自由」という言葉の意味が身に染みて理解できる。

長くなりすぎた。今ぼくの手元には全集サイズの詩集が置いてある。ぺらぺらめくってみただけで、たいして読んではいない。それでもこの赤い装丁の分厚い本が、机の片端にあって、今日という日の朝を支えてくれた気がしている。