バレンタインデーに嫁が本をプレゼントしてくれた。サン=テグジュペリの小説『戦う操縦士』、大学時代からずっとほしかった本だ。
ほしかったのに今まで買ってなかったのには、理由がある。理由といっても、たいしたことではない。新潮文庫から出ているこの本は、すでに絶版になっていて、中古本しか存在しない。Amazonの古本は時期によって値段が大きく上下する。しかも大好きな作家だから、できるだけ状態の良い本がほしい。
つまるところ、「状態の良いものが安く出ていたら買おう」と思い定めていたら、気づけば10年以上の月日が経っていた、というわけだ。
嫁が注文してくれた本は、すこぶる保存状態がよかった。嫁がプレゼントしてくれた時点で、すでに「世界に一つだけの本」になっているから、状態の良し悪しなんて気にならないのだけれど、「状態の良さそうなものを選んだの。キレイなのが届いてよかった」と話す嫁の姿がうれしかった。
ぼくの方はというと、ここまでキレイな現物を手に入れるとは思ってもみなかったので、うれしいを通り越して、「これ、ぼくのなの?」という感じできょとんとしてしまった。
すでに絶版になっているサン=テグジュペリの本だ。ぼくにとっては、人類の遺産である。だから、ぼく個人の所有物というよりも、ただ「いま預からせてもらっているだけ」という感じがする。大事な鍵束の管理を任された新米司書のような自負心。ぼくの番に本を汚すようなことがあってはならないと、襟を正すような気持ちで本と向き合っている。
それにしても古い文庫本である。表紙の文字は、読み慣れない旧字体で書かれている。中の本文は新字体だが、活版印刷なので指で紙面をなぞると、わずかにぼこぼこしているのがわかる。嫁に「ほら、活版印刷だよ」と伝えると、「銀河鉄道の夜で見たことある!」と喜んでいた。前に二人でアニメ版の映画を見たことがある。ジョバンニが活字を拾うシーンを覚えていたらしい。
本の値段は「80円」とある。今とは物価がまるで違う。嫁はこの「80円」の印象から、この日一日中、おじいちゃんのことを思い出していたそうだ。嫁のおじいちゃんは遊びに行くとお小遣いをくれた。ただ、その額が10円やら30円やらで、いったいどんな金銭感覚なんだろうと、幼い頃の嫁は不思議に感じていたらしい。その思い出から、嫁の中で、十円玉とおじいちゃんとが強く結びついているらしかった。
このおじいちゃんと嫁の思い出話も、なかなかに面白いので、いつか文章に起こしてみたいと思っている。
さて、『戦う操縦士』だ。200ページほどの薄い本だが、まだ半分くらいまでしか読み進められていない。だが、すでにこの時点で「一生物の本になる」という予感がある。この本は、ぼくが「戦争」というものを考えてみる、良いきっかけになるかもしれない。
嫁が言うには、チョコレートも追々届くらしい(本の配達予定日に合わせて注文したら、本の方が予定よりも早く届いてしまったとのこと)。
とはいえ昨日、配送が遅れるという旨のメールがAmazonから届いていたから、もしかしたら手元に来るのはずっと先になるかもしれない。いやそれどころか、実はもう商品が残っていなくて(販売期間が限られる商品だからそれもあり得そうな話だ)、いつまで待っても配送はされないのかもしれない。見てみると一応は「配送予定」となっているが、痺れを切らしてこちらからキャンセルするのをただ待っているだけのような気もする。
それならそれでいいと思っている。ぼくたちへと届けられるはずのチョコレートが、宇宙空間をただよう隕石のように、外の世界をいつまでも浮遊している、というのも悪くない。1年が過ぎた頃に「まだ届かないねえ」などと言い合えたりしたら、それはもう最高だと思うのだ。