筋トレをして思ったこと

6時半起床。ちょうど6時間睡眠だ。夜まで寝ないで起きていられるだろうか。

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ここ最近、一日おきに筋トレをしている。最近と言っても、1週間ほど前からなのだけれど。

昨日も筋トレをした。前回のときは筋トレ後に急に身体のあちこちが重だるくなってきた。その感覚が無性に不快で身体を起こしていることができず、思わず布団に横になったくらいだった。妻に冗談で「手足をちぎりたいくらいだ」と言ったが、あながち冗談でもなかった。

しかし今回はそうした不快感は出てこなかった。AIも運動習慣が身につけば、じきに感じなくなると言っている。この調子で筋トレ習慣をつづけていきたい。

ところで、今回ぼくが筋トレをするにあたって刺激になったのは、「宇宙の奇石」というドキュメンタリーだった。その中に宇宙飛行士が宇宙船の中でトレーニングをする様子が映されていた。それを見たとき、自分でも不思議なくらい、彼らのことを立派だと思ったのだ。

ぼくがこれまでにも人生の中で何度も筋トレを習慣化しようと試みている。しかし続いたためしがない。考えてみるに、筋トレが長続きしなかった原因は、ひとえにぼくの中に筋肉というものに対する憧れがほとんどなかったからだと思う。

男らしい身体、女らしい身体──そのどちらもぼくは小さい頃から苦手だった。男性の筋肉に対しても、女性の皮下脂肪に対しても、うっすらとした気持ち悪さを覚えるだけだった。ぼくが安心して見ていられるのは、筋肉も脂肪も薄く、性ホルモンの匂いを感じさせないような、中立的で中性的な身体だけだった。

当然、自分がマッチョになりたいという思いもなかった。むしろ少なくとも子ども時代のぼくは、ひょろひょろとしていかにも線が細そうな、筋肉のない身体を気に入ってすらいたと思う。非力さはぼくが頭脳派であることを引き立てるスパイスだった。

おそらくぼくの中には長いこと、自分が筋肉をつけることに対して無意識的な抵抗感があったのだと思う。それは個性を失うことであり、宗旨替えであり、ある種の敗北宣言だった。いまさら筋肉なんてものに頼るのか?結局彼らが正しかったのか?──はっきり自覚しないまでも、ぼくは筋肉というものを、筋肉を高く見積もるような価値観を、心のどこかで軽蔑していたのだ。

しかし宇宙飛行士が筋トレをする姿は、ぼくのそうした屈折した思いをほぐしてくれた。なぜならそれは、暴力のためでもなく、モテるためでもなく、強ぶるためでもなく、ただ人類的な夢のために必要とされた筋肉だったからだ。それはオスになるための筋肉ではなく、もっと目線の高い目的のために捧げられた、人類的な筋肉だった。

人類的な筋肉は世界に抗うための道具だ。世界に立ち向かって自らの任務を全うするための準備だ。ぼくははじめて本当の意味で、筋肉がほしいと思った。

ぼくはバレリーナのお尻は好きだが、プレイボーイの表紙的なお尻は好きではない。自分を飾って自分の価値を高めるための努力よりも、自分より偉大なものに捧げられる努力の方が好きだ。人間は目的ではなく道である、といった思いが心のどこかにある。

もしかしたら今回の筋トレは三日坊主にならずに済むのかもしれない。

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今日はここまで。筆の向くままに書くことを自分に許すなら、朝の日記習慣は散歩のように楽しいことだ。