この世ならざる大気をすすって

朝の5時半起床。

思えば、逃げ水を追いかけるような生き方をしてきた。はるか遠くに見える蜃気楼を生きるための糧にしてきた。芸術家が理想の美を追い求めて永遠に完成しない作品作りに取り組むような具合に、自分の人生に取り組んできた。その結果が今のこの自分だ。作りかけのがらくたばかりに囲まれて、何一つ確かなものを手にしていない今の自分だ。

ぼくはこの世の空気を吸うのが嫌だった。この世の食べものを食べるのが嫌だった。小学生の頃、焼き肉食べ放題の店で肉を食べずにずっとジュースばかり飲んでいた。高校生の頃、皆と一緒に教室の空気を吸うのが苦痛でしばしば授業をサボって将棋部室に逃げ込んだ。

大学生のときは、よく非常階段の一番上に上り、後光のように夕日が差し込む神々しい空を一人で眺めていた。口元には煙草が刺さっていた。今にして思えば煙草も非常階段のてっぺんも、どちらもこの世ならぬ大気を吸うためのものだった。

詩や芸術をたしなむことが一つの逃げ道になったのも、今になっては大いに頷ける。それらは蜃気楼をつかまえようとした人たちが作ったものだ。空気が薄くなって息が苦しくなるような、この世ならぬ大気の存在を感じさせた。

ぼくはそのエーテルだかガイストだかをすすることで、ようやく喉の渇きを癒やしうるような気がしていた。聖なる水でなければ喉の渇きは癒えなかった。そこらじゅうで手に入る水道水を口にしても飲んだ先から蒸発してしまうだけだった。

この生き方は現実と折り合いがつかない。そして実際につかなかった。しかし今ようやく妻のおかげで現実を許すことができるようになってきた。生きることを楽しめるようになってきた。

それでもまだ風邪のようにぶり返すことがある。空気の薄いところへ行きたくなることがある。蜃気楼のかすかなをガイストをすすりたくなることがある。ニーチェやサン=テグジュペリの登山の喩えを読むたびに自分の中にある願いのようなものを思い出す。

ぼくのこの、この世ならざるものへの憧れを生活の中でどのように位置づけるか。実生活の中にどのように溶かし込むか。それはけっして挫折にはならない気がしている。心の帝国の中に清浄な泉があっても何も不都合なことはないはずだ。喉の渇きを持ち、心の中に泉を持てることは幸運なことでもあるのだ。

今日はここまでにしておこう。一息に書き切るには自分にとってあまりにも重要すぎるテーマだ。何度も繰り返し言葉にするうちに輪郭がつかめてくるだろう。

ところで、ガイストという言葉に日本語を当てたい。ガイストには以下のような意味があるらしい。

ドイツ語で「霊魂」「精神」「こころ」「幽霊」を意味する言葉

今度暇なときにでもじっくりと考えてみよう。

“ところでその二”になってしまうが、ぼくは詩や芸術を「この世界のガイストだ」と捉えているということだろうか? これもいつか考えることになるテーマな気がする。

追記。さきほどネットスーパーの注文履歴を確認したら、菓子パンが大量に入っていて笑ってしまった。注文したときにぼくが寝ていたから、菓子パンを買うのを毎度楽しみにしているぼくのために、妻が入れておいてくれたのだ。それもぼくが普段買う量の2倍も3倍も。妻にはこういうところがある。自分のためにも人のためにも「たくさん」を用意しようとする。妻の気持ちのいいところの一つだと思った。